最近話題ですよね、AIによる創作関連の話。


今回はそれに関して、こんな向き合い方をできるといいんじゃないかという話を書いていこうかなと思います。



前置き

本題とはあまり関係ないので読まなくてもよいのですが、いろいろ議論になっている話ではあるので一応少し真面目な話も書いておきます。(この先の話は真面目ではないと!?)


一口に「AI」といってもいろんなものがあって創作関連以外でも幅広く使われていますし、僕も自分で曲作るときにNEUTRINOとかの力借りて歌入れしたり、iZotopeのOzoneの力借りてマスタリングしたりしてますが、それらと比べるとイラスト関連は何かと話題が(特にネガティブな方向に)沸騰しやすい印象はあります。


実際問題いろいろと課題はあると思いますが、個人的にはこの流れ(AIがいろんなことを学習して既存の手法にとってかわること)自体は止められないし、止める必要もないと思っています。


なぜならそのほうが社会にとってメリットが大きいから


この手の技術革新の話ではよく馬車と自動車の話が出てくると思いますが(別に写本と印刷とか、画家と写真とか、そろばんと電卓・Excelでもいいですが)、まあ自動車がすべてにおいて上位互換というわけではないにしても、今の社会で生きている大半の人は自動車社会と馬車社会なら自動車社会を選ぶのではないでしょうか。


勿論無制限に自動車社会がすべて肯定されるわけではないのですが、


馬を使っていないから自動車は邪道だとか、
移動するのに努力しないとかありえないとか、
馬車で生計を立てている人の生活を守るために自動車は規制すべきだとか、


そう言う人は現代ではほぼいないのではないかと思います。(馬車で生計を立てていた人たちに同情はするにしても)



とはいえ、AIの躍進においては技術革新そのものの話とは別に価値観のアップデートの話もあると思います。


僕らが今直面しているのは、


(現状のクオリティがどうこうというレベルの話ではなく)AIによる創作(やAIを使った創作)と人間による創作って何が違うの?」


という話と


「同じにしても違うにしても分けて扱うべきなの?」


という話だと思います。


今回ここはあまり掘り下げないので個人的な結論を書いておくと


「AIによる創作やAIを使った創作と人間による創作については、何かを学習してそれを自分の中で咀嚼して表現をアウトプットするという意味では同じ


「ただし、社会制度上ではAIによる創作のほうを権利的に劣る扱いをするほうが少なくとも短期的には社会全体の文化の発展を害しない


って感じかなあと思っています。


まあ前者については「ドラえもんのどこでもドアの移動前後の人物を同一人物とみなしますか?」みたいな話にも近いので、理屈上の話と、それを感情的に受け入れられるかという話がそれぞれあるかと思います。


この手の話は普段生活する分には考えなくてもよいので曖昧にしておけるのですが技術の発達によって一般市民も古代ギリシャの哲学者みたいなことを真面目に考える必要が出てきた感じですね。


僕自身、この結論を感情的に受け入れられているかというとそうでもなくてむしろ違いがあってほしいと思ってたりもするんですが、まあそれはそういうことを考える機会が今まであまりなかったことからの抵抗感なだけで、(主観的な話はさておき)客観的な行為としては違いがないだろうなと思います。


一方で、後者については僕は著作権法とかも自然権として考えるよりは財産権としてインセンティブ論で考えるほうが(特に多様な価値観を持つ人間によって構成される現代では)話がうまくまとまるだろうなと思っているので、哲学的な話とは別に実務的な方法としてそう思っています。


その観点では現状同列に扱うとトラブルと混乱だらけになるだろうから同列扱いは避けたほうがよいと思っています、少なくとも当面は。



今回の本題

本題です。


社会制度としてどうのこうのという話は一旦抜きにしても、僕はAIによって自分の手をほぼ動かさず創作できる環境自体が整っていくことは大歓迎です。



なぜか。



やりたいことがたくさんあるから




僕は音楽を作ることの優先度が高めですが、音楽を作る中でも作詞・作曲の優先度が特に高めで、編曲はランクダウンします。そしてレコーディング、ミックス、マスタリングはさらに下がります。その辺りをAIに任せられるなら任せて作詞・作曲に専念したい。


他に歌も歌いたいし、楽器も弾きたいし、イラストも描きたいし、漫画も描きたいし、アニメも作りたいし、ゲームも作りたいし、VRChatで涼宮ハルヒのワールド作りたい……とか思っています。


こういった中では自分自身でやるから楽しい、気持ちいいものと、手段は関係なくアウトプットが手に入ればそれでもいいというものがあります。つまり、手段が目的なのか、あくまで目的のための手段なのかという話ですね。


僕はイラストを描くこと自体も好きですが、それよりはイラストによって何か想いを表現したいという気持ちのほうが今は強いです。なので、そこが簡略化されるのであればウェルカムです。


僕が表現したいものを表現するということ自体は僕にしかできないと思うので(それが社会の中でオカネになるかは別として)そこはこの先もずっとAIにとって代わられることはないと思いますが、僕が脳内で思い描いた表現をAIが形にしてくれるなら究極的には作詞・作曲もAIに任せたいぐらいの気持ちです。


ここまで割り切っているかは別としても、できれば複数の表現手段を使って表現したいと思うアーティストはプロの世界でも実際にいます。


ケース1:BUMP OF CHICKEN 藤原基央の場合

ロックバンド・BUMP OF CHICKENのギター・ボーカルの藤原基央さんは2007年に発売された『orbital period』というアルバムを作った際に、曲とリンクした88ページに及ぶブックレット「星の鳥」を自ら描き下ろしました。


藤原さん自身は1stアルバム『FLAME VEIN』では歌詞も含め手書きイラストを描いていますし、2ndアルバム『THE LIVING DEAD』でも歌詞カードの挿絵を描いていました。それ以外でも度々ジャケットを手掛けたりもしていますし、バンプの曲は元々物語調の曲も多いのでそうした絵本的な世界観の表現の方向性は強かったですが、それをがっつりと体現したのが「星の鳥」でした。


なお、Wikipediaによると(Wikipediaかよ!)「星の鳥」の制作については非常にタイトなスケジュールの中の制作になったので藤原さんは「もうやりたくない」と言ったそうです。

ケース2:米津玄師の場合

今をときめく売れっ子の米津玄師さんはまだ知る人ぞ知るアーティストだった頃にアイネクライネという曲のミュージックビデオのために800枚の絵を自ら描き下ろしてアニメにしました。


元々米津さんはそもそも自分が絵を描くのが好きというのもありつつ人とコミュニケーションがとれないからという理由で自身の音楽やジャケットのためにイラストを描き下ろすということはやっていましたが、ここまで単独の力で労力を費やしたのは今のところ「アイネクライネ」が最高峰だと思われます。


どれくらい労力を費やしたかというと、腱鞘炎になって最後のほうは悪寒もするようになって「もう二度とやらない」と思ったほどだったそうです。

ケース3:ハッピーメディアクリエイターの場合

逆に音楽が主戦場ではないけれど音楽をやっている方もいます。


ハッピーメディアクリエイター時々漫画家許斐 剛さんは自信が手掛けた漫画「テニスの王子様」シリーズにおいて、自身で作詞、作曲、歌まで担当されています。


アニメ化された際に原作者が作詞を担当したりすることはたまにありますが、作曲までするのは稀で、しかも歌まで歌うことはほぼないと言っていいと思います。


作曲もアルバム曲の隅っこに1曲だけとかではなく映画の新規劇中歌をすべて描き下ろしとかしてるので、流石自称するだけあってハッピーなメディアクリエイターといえるでしょう。

世界のつくりかた

他にも麻枝 准さんや志倉千代丸さん、上松範康さんみたいにお話も曲も手掛ける方もいますし、今をときめく新海 誠監督に至っては音楽と声以外はすべて自分で映画を作り上げました。FROGMANさんのように監督、作画に加えて声優までほぼすべて自分でやっている人もいます。


新海監督は音楽はできればやっていたのかもしれないけど、できなかったので同僚にお願いしたということも仰られていました。


今の時代では音楽もAmadeus ToplineとかのAIによる作曲サービスもあったりしますし、声もCeVIOとか使えばある程度のものを自分でも作れたりするのでもし当時の新海監督が今いたら音楽も声も自分で作っていたかもしれません。


さらに、こうして作品だけでなく、世界を作った方もいらっしゃいます。






これはVTuberの宝鐘マリンさんが中学生から高校生にかけて制作(未完)したゲーム「The Second World~世界のつくりかた~」の封印を解いて呼吸困難に陥りながら自らプレイする動画です。


この「The Second World~世界のつくりかた~」については、音楽やモンスター等についてはフリー素材を使っていたりプログラムはもう一人の協力メンバーに依頼していたりするものの、基本的には企画・シナリオ・キャラクターデザイン・イラストを宝鐘マリンさん自身が単独で手掛けていたりイラストが描けていなかったりします。


ちなみに、なぜタイトルに「Second」と付いているかというとこのゲームはマリンさんが小学生のときに描いた漫画の続編であり、その漫画が「Fisrt」なWorldだからだそうです。自身でメディアミックスを手掛けられているわけです。凄いですね。



マリンさん自身は黒歴史と呼んでネタにしている部分もあったりご自身のリアクション自体はめちゃくちゃ面白いんですが、個人的には本当にこれは凄くて素晴らしいことだと思いました。



そして後日この作品についてマリンさんが改めて語った内容が本当に大事なことが詰まっていると思います。





この動画の自体はこの配信の切り抜きなのですが、この5分の切り抜きの部分(特に1分辺り以降、さらにいえば2分半辺り、4分辺り)だけでも多くの人に観ていただきたいと思います。


ゲーム作ってたり、漫画描いたり、声優さんにもなりたかったマリンさんが自分は何がしたかったんだろうと思ったときに「キャラクターに命を吹き込むこと」だったというのが象徴的で、ゲームにしても漫画にしても声優にしてもそのための手段なんですよね。だから、手段が限定されることも囚われる必要もない。でも、それに気づけなかったり、いつの間にか忘れてしまう。




僕自身が創作するテーマはマリンさんとはまた違いますが、漫画やイラストを描いたり歌を歌ったり楽器を弾いたり曲を作ったりしてきた僕にとっても音楽を作ることは一つの手段でしかないと思っています。



実際、僕もこういう動画を今年公開しました。






この曲は声優の羽澄 愛さんの素晴らしい声にインスパイアされて作ったものですが、曲のテーマとしては


「創作すること」


「声優さんがそれに命を吹き込むこと」


「誰かが作った世界が誰かの世界をまた作っていくこと」


をテーマにしていて、歌を羽澄さんにお願いした以外は作詞・作曲・編曲・トラック制作・ミックス・マスタリング、絵コンテ・イラスト・動画編集など僕一人でやりきりました。


特に絵コンテ描いてイラストを描くのに2カ月くらいはかかりまして、米津さんの800枚と比べると全然少ない30枚程度ですが、それでも結構大変でした。


なので、ここまでやるのはそんなに頻繁にはやらないつもりではありますが、でも、もしこれがもっとAIとかの技術革新で簡単にできるようになったらこういう動画を僕はがんがん作るかなと思います。



2カ月かけて苦労して作ったから価値があるんじゃないか、それが一瞬で出来上がったら情緒がないのではないか、という考えもあるとは思います。


それもわかる。わかるのですが、2カ月かけてた作業が一瞬で終わるならさらなるクオリティアップに2カ月かけたり、800枚じゃなくて8000枚のイラスト描くようになったり、数年に1本しか作らないような動画を毎年作るようになるだけ、みたいなのがクリエイターの性なんじゃないかとも思います。(まあ制作時間短縮できた分、大切な人とゆっくり過ごす時間が増える、とかでも僕は全然いいと思いますけど)


※もっというとそもそも労力自体を評価することはあってもその労力の多寡で差別化するのは基本成り立たないと思います。例えばライブに徒歩で来た人と電車で来た人、東京のライブに東京から来た人と鹿児島から来た人、夜の生配信に来た昼職の人と夜職の人、それぞれかけた労力やコストはかなり違うと思いますが、それでファンを区別する、しようとすることが成立しそうかという話ですね。


さらに、今はミュージックビデオレベルですが、音楽やイラスト以外ももっと個人制作が容易になれば僕も新海監督みたいにアニメ映画を作りたいと思いますし、ゲームだって作りたいと思います。(そのためにUnityに手を出そうとしていたり……)



今でも個人でアニメやゲームを作って公開している人はたくさんいますが、それでもイラストや音楽に比べると桁違いに少ないとは思いますし、作れるボリュームも制作スピードも小さく遅くなってしまいがちだと思います。(それはあえてそうしたいというよりは資金や制作期間や技術の制約によってそうせざるをえない部分が大半だと思います)



そうして誰もが自分の「世界」をつくっていくような世界がAIの発展によって切り拓かれていくなら、それはとても素晴らしいことだと思います。




今年発表された漫画「ハンチョウ」の第106話「絵心」でもこんなシーンがありました。




別に絵を描くわけでもないのに画材を見てワクワクしているときに



「いや・・・・ちょっと待てよ・・?」


「描くわけでもないって・・・・よく考えたら・・・・」


「誰が決めたんだ・・? そんなこと・・・・・・・・?」



これ・・・! この感覚・・・っ!



これは特に創作していなかった人にとっての画材と絵の話ですが、音楽でも漫画でも小説でもアニメでもゲームでもダンスでもコスプレでも同じことが言えますし、既に音楽や絵や漫画とかを描いていたりする人にも他のジャンルについて同じことが言えるかと思います。そしてAIだって「画材」だともいえます。米津さんだってボーカロイドについて「これなら自分にもできるんじゃないかな」と思って始めてたり。



今、絵だけを描いてる、音楽だけを作ってる……そういう状態だったとしても、それしかやらない、やっちゃいけないと誰が決めたんだ……? 自分にはできないなんて誰がきめつけたんだ……?と。



僕も元々は音楽に興味を持つよりも先に漫画やイラストを描くことに興味があって描いてました。


ネット上に音楽を公開するよりもずっと前に、今は亡きmixi(あるがな)のコミュニティとかでお絵描きイラスト投稿してたりもした人間なので、今音楽だけ作ってる人でも絵を描いたり、小説書いたり、映画作ったりとかしたいという思いは少なからずあるんじゃないか、しかも自分でそのことに気づかないままで……と勝手に思っています。



まあ多くの人が諦めたのは「才悩人応援歌」みたいな経緯だったりするかもですが、でも、仮にかつては難しかったとしても環境が変われば話が変わってきますし、そもそも自分が表現したい世界は自分にしか表現できません。それが他人から見ればどんなに不器用なものだったとしても。



そんなことを最近僕はよく思っている中で(だからさっきみたいな曲・動画作ったりしているので)、


「ハンチョウ」のこの話数を読んだり、

「その着せ替え人形は恋をする」で自分がしたいからコスプレを始めるのを観たり、

「明日ちゃんのセーラー服」第7話でたった一人のためにギター弾き語り練習するのを観たり、

「ラブライブ!虹ヶ咲学園スクールアイドル同好会」第2期で自分が音楽始めた理由を思い出すのを観たり、

「ありふれた職業で世界最強」第2期第12話の主人公の発言を聴いたり、

「SHIROBAKO」劇場版に込められたメッセージに触れたり、


といった感じで今年は同じような志を持っている作品と出会う機会が大きくて気持ちよくなっていたところに、作品の中の登場人物というレベルではなく実在の人間が実際行った行為とその結果としての宝鐘マリンさんとその作品の件およびそれに関する発言はかなりクるものがありました。


そう、ここしばらく僕が個人的に思っていたことは世間的にも世界的にもこの「世界のつくりかた」に集約されるのだろうと。



AIクリエイターの台頭を含むこれからの時代において「世界のつくりかた」が羅針盤になるのだろうと……!





そんなことを思っているので宝鐘マリンさんには是非「世界のつくりかた」を作りきってほしいなと思います。



マリンさんの発言を観ていると自身の選択について少し弱気な部分も見え隠れしますが、


あなたが今自身の作品に対して感じていること、思っていることはとても大事なことで、


多くの人に勇気と夢を与えること


だと思います。胸を張っていただきたい。



そんなわけで、みんな、


自分好みなアニメとかゲームとか映画とか自分でどんどん作っていこう、宝鐘マリンさんみたいに


あとがき


……まあとはいえ、自分は絵しかやりたくない、音楽だけで勝負したい、という人がいるのもわかります。それに誇りを持って戦う人だって、負けず劣らず素晴らしい。むしろそれがいい。



ただ、それで仕事として飯を食っていけるかというのはまた別の話でもあります。



たとえば声優さんは(元々は俳優の一側面だったりもしましたが)声だけあてるお仕事だけではなく、ラジオ番組をやったり、歌を歌ったり、しかもライブまでし、さらにはダンスまでする(必然的に見た目や体型といった意味でのルックスもある程度必要になる)というところまで求められるのが普通になっています。


中には楽器演奏まで求められる作品もあったりしますが、そうした中で「自分は歌もダンスもやる気はないです。番宣とかもしたくないです。声一本だけで勝負します」で通用する声優さんもいなくはないものの、それでずっと生き残っていけるのはごく一握りの限られた人だけにはなるかなと思います。


一方で、個人が声優活動をするということもネットの普及等もあって簡単になりましたので、それだけで食っていくということを考えなければ自分のやりたいことだけやりたいようにやる声優活動も可能にはなりました。



そのこと自体はある意味で寂しいと思う部分もありますが、それが競争社会でもあり、より情報量の多い作品展開を生んでもいます。(まあ情報量が多いことが必ずしもよいわけではないですがそれはさておき)


一方で、それとともにプロにこだわらなければ誰でも声優を楽しめる環境が充実しているという状態がそれらを育む土壌でもあり、受け皿ともなる状態というのは一つの理想形だとも思います。



創作に関しても同じようなことが言えると思います。



創作に関してもAIによる技術革新が入ってきて個々の創作がより容易になってくると、プロにはよりマルチな創作が求められるように自然となってくると思います。一芸だけで戦える人も残るとは思いますが、相当限られると思います。おそらく創作技術そのものよりもそれ以外の能力、コミュニケーションやマネジメント能力とかエンジニアスキルとかをどれだけ持っていて使いこなせるかが鍵になるかなと。


一方で、趣味で気軽に創作を楽しむ人はより増えると思います。


そういう世界が全肯定できるかといえばそうではない部分も少なからずあるかと思いますが、個人でアニメ制作できるなら僕は「ぽんこつポン子」のアニメとか作りたいですし、藤崎 竜版「封神演義」とかは有志が集まってアニメ制作が行われたりするのではないかと思います。


そうしていろんな作品がさらに増え、プロによる制作では今では想像もつかないような表現が生まれるかもしれないと思うと、それはとても楽しみだなと思います。


社会制度としてはいろいろと考える余地はまだまだあると思いますが(特に悪用する人たちに対して)、そんな感じで一個人としての心構えとしてはAIクリエイターの発展には大きな期待を抱いていてよいかなと思います。